会津若松市戊辰150周年記念事業

「義」に殉じた戦い
戊辰戦争とは

京都守護職の拝命

 ペリー来航後、開国をめぐり開国派と尊王攘夷派が対立するなど、「安政の大獄」や「桜田門外の変」により国内の政治は乱れ、尊王攘夷派や幕府に不満を持った人々が京都へ集まりました。幕府は治安維持のために京都守護職を設置。九代藩主 松平容保に白羽の矢が立てられました。

▲ 家訓十五カ条

 容保は藩の財政難や、自身の健康上の理由もあり就任を固辞。会津藩内でも自重論が根強かったのです。しかし、最終的には「家訓」の最初にうたわれている“徳川将軍家への忠誠”を理由に就任を迫られ、文久2年(1862年)、京都守護職を拝命することとなりました。

 その後、京都において、会津藩預かりの「新選組」の活躍や、「禁門の変(蛤御門の変)」(1864年/元治元年)で尊王攘夷を掲げる長州藩らを撃退したことなどにより、公武合体を望む孝明天皇からも厚い信頼を得ました。

▲ 御宸翰
堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、 速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり
文久三年十月九日
▲ 御製
たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる 「和(やわ)らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へん」「武士(もののふ)と心あはしていはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」
▲ 禁門の変図屏風

大政奉還と
王政復古の大号令

 「禁門の変」の後、幕府は御所へ向けて発砲した長州藩の罪は重いとして、第一次・第二次長州征伐という攻撃を行いました。しかし1866年に14代将軍家茂が亡くなったことで征伐は中止。さらに同年暮れには孝明天皇が崩御するという不運が重なる中、薩摩藩と長州藩は同盟を結び、幕府に敵対する勢力は急激に力を増しました。
 明治天皇が即位すると公家の岩倉具視を中心として倒幕の計画が進められました。こうした動きに対し徳川慶喜は1867年(慶応3年)10月、政権を朝廷に返す「大政奉還」を行い、265年もの間続いた徳川幕藩体制は終止符が打たれました。
 大政奉還の後、新政府は明治天皇の名において「王政復古の大号令」を発し、天皇中心の政治に戻すことを宣言。また、徳川家の影響力を排除するため、慶喜の官位剥奪と領地返上を決定しましたが、旧幕府側は強く反発し、緊張は一気に高まりました。

戊辰戦争の始まり

 会津・桑名などの旧幕府勢は、新政府側の決定に反発し京都へ軍を進めようとしますが、これを遮ろうとする薩長を中心とする軍勢と衝突し、1868年(慶応4年)1月、「鳥羽・伏見の戦い」が始まりました。旧幕府軍は、新政府軍の約3倍の兵数を有していたにもかかわらず、戦闘の統制が取れず劣勢な状況でした。徳川慶喜は松平容保など、わずかな人々を連れて密かに海路江戸へ帰りました。これを知った旧幕府軍の士気は落ち、やむなく撤退しました。
 また、新政府軍はこの戦いで、天皇を象徴する菊の御紋が入った“錦の御旗”を掲げ、これに逆らう者を「官軍」にたてついた「賊軍」とみなし、旧幕府軍に大きな衝撃を与えました。
 その後、東海道の諸藩は恭順の意を示し、旧幕府側は、本拠地の江戸城を明け渡しました。
 会津藩においても新政府軍に恭順の意を示しますが受け入れられず、また仙台・米沢藩をはじめ東北諸藩も会津藩や庄内藩のために尽力しましたが退けられたため、奥羽越列藩同盟が結ばれました。北日本は全体として新政府へ抵抗する姿勢を示したのです。

▲ 会津戦争記聞

会津戦争へ

 会津藩の中でも戦争を回避しようとする話し合いが持たれましたが、一方では、新政府軍からの攻撃に備えるための軍制の近代化が進められました。 新政府軍は徐々に奥羽越諸藩へ軍をすすめ、越後長岡城や二本松城を攻め落とします。
 8月20日には会津攻撃が開始されました。東部の藩境である母成峠から攻めてきた新政府軍に対し、旧幕府の伝習隊や新選組などが抗戦しますが、武器の性能の差もあり突破されてしまいます。
 会津藩では、城下への進路である十六橋を破壊して新政府軍を止めようとしましたが間に合わず、戸ノ口原では、白虎隊士中二番隊などが抗戦しましたが、一気に突破されてしまいました。新政府軍は城下へなだれ込みました。
 一方、戸ノ口原で敗れた白虎隊士中二番隊は城へ戻ろうと引き返しましたが、城下が炎上する様子をみて、武士の誇りを持って自ら死のうと、自刃することを選択しました。これが後に白虎隊の悲劇として語り継がれることになったのです。
 城下への敵兵の突入を知った会津藩は藩士やその家族らに城内に入るように触れを出しましたが、婦人や老人・子どもの中には足手まといになるのを恐れ、自刃する者もいました。
 容保は甲賀町口郭門に留まり、防戦準備にあたる兵を励ましましたが、その後、新政府軍は郭内に押し入ってきます。そして、防戦を指揮していた家老、田中土佐と神保内蔵助は責任を取る形で自刃しました。
 各地に出陣していた会津軍は若松城下に敵侵入の報を受け、若松城を目指して続々と撤退。中には日光方面から引き上げてきた山川大蔵の隊が彼岸獅子を先頭に立て、敵の意表を突いて入場したというエピソードもありました。

▲ 会津藩弾薬箱
▲ 若松城天守東

 薙刀で奮戦した中野竹子ら女性で構成された娘子軍や、城内から砲撃したり、打ち込まれた不発弾を分解して君前で説明したりした山本八重、打ち込まれた焼弾と称する砲弾を濡れ布で発火寸前に包み込み消火にあたった婦人達など女性も共に戦いました。
 城内の人々は必死に抵抗し、一ヶ月にも及ぶ籠城戦となりました。9月14日に新政府軍の総攻撃が開始されると、鶴ヶ城には1日に約2500発もの弾丸が打ち込まれたとも言われています。
 しかし籠城戦が続く中で、米沢藩や仙台藩など新政府側に恭順する藩が相次ぎ、会津藩は孤立していきます。

▲ 官軍勝利会津落城
▲ 戊辰戦記絵巻物小田山砲弾
▲ 白虎隊自刃図
▲ 会津軍記 会津藩降伏の図

鶴ヶ城開城

 一ヶ月にも及ぶ籠城戦の末、これ以上の藩士や領民を傷つけまいと、容保はついに降伏を決意し、9月22日の朝、鶴ヶ城の北追手門に降参と書かれた白旗があげられました。追手門前の通りに会場が設けられ、容保・喜徳の藩主父子は降伏式へ臨みました。
 「信義」を重んじ、「正義」を貫いた会津戦争は幕を閉じました。

▲ 泣血氈
降伏式に敷かれた毛氈。会津藩士はこれを「泣血氈」と呼んで、その悔しさを忘れないように誓い合ったという。